三つの天守閣

1. 筒井定次の城

天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。
慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりましたが天守閣は、寛永10年(1633)頃に倒壊したと推定されます。

筒井の天守側の石垣

筒井の天守側の石垣

三層の天守が描かれた絵図

三層の天守が描かれた絵図

2. 藤堂高虎の城

慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。

藤堂高虎像

藤堂高虎像
伊賀市の西蓮寺所蔵の高虎像を伊賀在住の前田呉耕が模写したもの。

高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。幕末まで国替えなく、この地を収めました。

城下町絵図

城下町絵図

藤堂高虎(1556〜1630)

近江国犬上郡で生まれ、浅井長政らに仕えたのち、織田信澄、羽柴秀長に仕え、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげ紀伊粉河で2万石の大名となりました。豊臣秀吉が宇和島7万石の領主としましたが秀吉の没後、徳川家康に重用され今治20万石の大名となりました。
慶長13年(1608)に伊賀、伊勢の安濃津に移封となり伊予の2万石と併せて22万石の領主となりました。
藤堂氏はその後、32万3954石にまで加増され大藩となりました。

3. 現在の天守閣

天守閣

現在の復興天守閣は、当地選出の代議士、川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたものです。昭和7年(1932)に着工し、昭和10年(1935)10月18日に竣工しました。
木造三層の大天守と二層の小天守からなる複合式天守の”昭和の城”は、伊賀地域の文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられました。また、その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ伊賀のランドマークタワーとして市民に親しまれています。

天守閣

川崎克(号「克堂」明治13年1880〜昭和24年1949)

現在の伊賀市に生まれ、明治34年(1901)に日本法律学校(現日本大学)を卒業。尾崎行雄(号「咢堂」)の秘書などを経て大正4年(1915)三重県から衆議院議員に初当選、以後、11回当選。従四位勲二等。
史跡保存、自然保護にも取り組み、俳聖松尾芭蕉や伊賀焼の歴史を研究し『芭蕉は生きてゐる』、『伊賀及信楽』を著し、作陶や書にも熱意を傾けました。
また、芭蕉翁顕彰のため、昭和17年(1942)には城郭の中に俳聖殿を建て、戦後の芭蕉祭はその前庭で催されています。

川崎克氏

川崎克氏

芭蕉祭

芭蕉祭

10月12日の「芭蕉祭」が開かれる俳聖殿(国指定重要文化財)

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